DC博士のワン・ポイント

パーソン・センタード・ケア(その人を中心としたケア)について

はじめの一歩

 「ボケても安心して暮らせる社会」とか「ボケても,なにも変らない」とは、最近よくいわれますが、やはり私は「ボケ」たいとは思いません。正直にいえば、ずっとボケずにいたいと思います。皆さんはどうでしょうか。
 そこで、シリーズを始めるにあたって、私たちは、いったい、どうしてボケたくはないと思うのかを考えて見ましょう。

いろいろなことができなくなって、わからなくなる

ひとりで身の回りのことができなくなったら死んだほうがまし

 よく聞く言葉です。特に「ひとりでトイレもいけなくなるようなら死んだほうがまし」という高齢者は私の周りにもたくさんいます。実際私の両親もそういっています。「おシモ」のことができなくなるような状況は耐えられないというのです。これはいったいどういうことなのでしょうか。私なりに考えてみると、「できなくなる」という不自由さよりも、「だれかに世話をしてもらう」くらいなら死んだほうがましだという意味ではないかと思います。

 男性なら「女房に看てほしい」とか、女性でも「できたら娘に介護して欲しい」とおっしゃる人が多いことから考えると、誰か知らない他人の世話になるくらいなら、死んだほうがましというということではないでしょうか。そして、他人の世話になるということは、「知らない人の前で恥をかくのではないか」という不安につながっているような気がします。
ですから、「身の回りのことができなくなったら死んだほうがまし」と、いかにも能力が衰えることを心配しているような言い方をしていますが、実際は、「(能力の衰えを)バカにされ、恥をかかされるくらいなら死んだほうがまし」と言う気持ちが強いのだと思います。

 ここにパーソン・センタード・ケアへの第一歩があるのです。
 能力の衰えを援助し、能力を引き出すことはすばらしいことです。しかし、認知症の人が(たとえ話すことも、動くこともできなくなっている方であっても)、どのように感じ、どのような思いでいるかを考えることは、それよりもっと重要なことです。プライドを傷つけられる、バカにされることを死ぬほど恐れているのです。逆に言えば、いかに上手に援助をし、一見、その人の持てる力を引き出していても、本人が、「わかってもらっていない」と感じているような状況ならば、パーソン・センタード・ケアとして目指すべき認知症ケアの半分もできていないことになるでしょう。

 このような考え方を、パーソンフッド(personhood)といい、パーソン・センタード・ケアの中核となる考え方です。これから、折に触れてお話しすることになると思います。次回は、認知症の人に対して私たちが抱く感情について考えてみたいと思います。

まつかげシニアホスピタル
認知症介護研究・研修大府センター
客員研究員 水野 裕

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